人間の耳より4倍遠くの音を聞き取れるという、犬の耳。それにもかかわらず、大きな声で指示を出さないと聞いてくれないのは、なぜでしょうか。そこには、犬と人間で言葉に対する認識の違いがあるかもしれません。犬の五感の不思議に迫るシリーズ、嗅覚(前編・後編)に続き、今回は聴覚について、東京大学の特任助教、荒田明香先生に教えていただきました。
写真=永田雅裕 文=山賀沙耶
犬には、人間に聞こえない音が聞こえているのではないか―――。そう思った経験のある飼い主は多いのではないだろうか。
犬の聴覚は人間の4倍、つまり4倍遠くの音まで聞こえるとも言われ、嗅覚に次いで、五感の中で人間よりも優れている感覚だ。また、単に聴覚が優れているだけでなく、実際に人間には聞こえないけれど犬には聞こえる音というのは、存在するようだ。
「犬の聴覚の特徴としては、遠くの音が人間よりよく聞こえることに加えて、可聴域、つまり聞こえる音の範囲が人間とは異なることがあげられます。可聴域だけでなく、聞こえやすい音の高さも人間とは違うようです」
と荒田先生。
音の高さはHz(ヘルツ)という単位の周波数で表すが、人間の可聴域が16~20,000Hzであるのに対し、犬の可聴域は65~50,000Hz。また、人間が最も聞こえやすい周波数が2,000〜4,000Hzなのに対して、犬が最も聞こえやすい周波数は8,000Hz。周波数の数字が大きいほうが高音として聞こえるので、つまり、犬は人間よりも高い音を聞き取るのが得意、と言える。
犬と人間の聴覚でもう一つ違う点は、言語の聞き分けだ。
犬同士では言葉を使わないため、犬は人間ほど言葉の聞き分けが得意ではなく、特に子音の違いは聞き分けにくいと言われている。例えば「ごはん」と言うと喜ぶ犬に対して「おわん」と言っても、聞き分けられずに喜ぶといったことが多いだろう。
「とはいえ、1,000以上の言葉を覚えた犬がいることからも、犬は子音を聞き取れないわけではなく、単に子音の違いを重要視していないのだと考えられます。このことは、例えば日本語には母音が5種類しかないのに対して、韓国語には母音が21種類もありますが、日本語しか話さない人が韓国語を聞いたときに、その母音の違いを聞き分けられないのと似ています」
いずれにしても、特に母音が似たような言葉は、犬が混乱しやすい。指示語を決める際には、ややこしい言葉の使用は避け、短めのわかりやすい言葉を選ぶようにしよう。
また、犬は人間の言葉の、トーン(高さ)とピッチ(リズム)を聞いていると考えられる。
音の高さに関しては、もともと子犬の甘え声のような高い音にテンションが上がり、うなり声のような低い音にネガティブな印象を抱く傾向がある。このような傾向にもとづいてなのか、「ほめるときは高い声で」という話をよく聞くかもしれない。しかし、犬によっては高い声でテンション高くほめられるとおびえたり戸惑うコや、興奮するばかりで何をほめられているのかわからないコも。愛犬の反応をよく観察し、わざとらしくなく、心をこめて穏やかに伝えるようにしよう。
さらに、オイデやハウスなどの動作をうながす指示は短くはっきりと、フセやマテなどの動作を止める指示はゆっくり言うと、犬にも伝わりやすい。
犬に指示語を言うときによく見かけるのが、なかなか従わないからと、つい大きな声を出してしまっている場面。犬は人間より耳がいいはずなのに従わないのは、当然聞こえないわけではない。
考えられる一番の理由は、興奮している、怖いなどの理由で冷静でいられず、それどころではない状態だから。その場合は、指示を出すよりも、まずは犬を落ち着かせることが先決だ。例えば、日ごろから名前を呼びながらごほうびを与えるなどして、名前にいいイメージを付けておき、おびえているときに名前を呼ぶなどの方法で、落ち着かせてあげよう。
また、小さな声で言っても聞かないからと、どんどん声を大きくして何回も言うようにしていると、犬側としては、小さな声のときは従わなくてもいい、何回も言われるまではやらなくてもいい、と認識してしまうことも。
「犬に指示語を言うときのコツは、犬の注意を引いてから、優しいトーンで言うこと。例えば、犬の近くに行って、視界に入る位置で言うなどです。強い口調で言うと、犬が萎縮してしまったり、目をそらすなどのカーミングシグナルが出たりすることが多いですね。また、指示語に応じて犬が行動を取ったのに、その後嫌なことが起これば、指示に従わなくなるは当然です。言い方とともに言った後の対応もとても重要です」
さらに、「スワレ」「コイ」「マテ」など命令形の指示語は、つい飼い主側の語気が厳しくなりやすく、犬にネガティブなイメージを与えかねない。そういうときは、「オスワリ」「オイデ」「マッテ」など飼い主自身が優しく言いやすい言葉を選ぶといいだろう。
言葉は人間にとって意味のあるものだからこそ、つい犬にも伝わっているつもりになりがちだ。ところが、実は犬側ではその言葉の意味をまったく理解していない、あるいは違う意味にとらえている、という場合も多々ある。
「例えば、飼い主さんが『うちのコはオスワリができます』と言っていても、いつもと違う環境でいざ指示を出すと、できないことがよくあります。これは、飼い主さん側としては犬が指示語の音を聞いて従っていると思っていても、実は"いつもキッチンで手に器を持ってこんな動きをするときは、座ればご飯をもらえる"のように、犬側では音以外の情報によって判断している場合もあります。
オスワリという指示語を音でしっかりと覚えさせるには、音以外のヒントをなくしていく必要があるのです」
また、例えば「イイコだね」という言葉は、日本語を理解する人間にとってはほめ言葉だが、言葉を理解しない犬にとってはただの音でしかなく、飼い主の行動が伴っていないと正確に伝わらないことがある。例えば、犬が怖がっているときにだけ「イイコだね」と言い続けてしまうと、単に「怖いときに言われる音」と理解してしまうこともあり得る。
ご飯をあげながら「イイコだね」、犬が気分のいいときに「イイコだね」と声をかけてあげることによって、何の意味もなかった「イイコだね」という言葉が、犬にとってポジティブな意味を持つようになる。これを続けることで、その言葉は聞くだけで嬉しくなる、"いくらもらってもお腹いっぱいにならないごほうび"として効果を発揮するようになるのだ。
ちなみに、同様の間違いをしがちな言葉に、「○○ちゃん、ダメ!」(名前=ネガティブなイメージになってしまう)、「おしまいね」(こう言いながら、オヤツをあげ続けたり遊び続けたりしてしまうと、「もう1回」など逆の意味にとらえられる)などがある。
犬の聴覚の特徴はいろいろあるが、人間との暮らしにおいては、人間の言葉という音を犬がどのようにとらえているかがカギになってくる。伝わっているはずと思い込まず、相手のまったく知らない言語を使っているというイメージで想像を働かせ、丁寧にコミュニケーションをとっていくことが大切だ。
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